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文学や芸術の力を自然保護運動に活かす

~民話と演劇が三番瀬保全に貢献~

三番瀬を守る連絡会 中山敏則

「あらゆる手段を用いる」「打てるだけの手を打つ」──。これは社会運動の基本である。「はかりごとの多い者が勝ち、少ない者は負ける」という名言もある。自然保護運動では民話や伝説などの文学や芸術を活かすことも大事だ。三番瀬保全運動はそれらを大いに活用している。

◆多彩な運動を展開

三番瀬は東京湾の奥部に残った貴重な干潟・浅瀬だ。船橋市と市川市の地先に広がっている。三番瀬では、そこを通る第二東京湾岸道路が大きな問題になっている。第二湾岸道路は、「世界最大級のエネルギー・素材産業集積地」京葉臨海コンビナートと東京を結ぶ国家プロジェクト(国策)である。

第二湾岸道路が最初に表面化したのは1993年3月だ。三番瀬の大半を埋め立て、そこに第二湾岸道路を通すという計画を千葉県が発表した。三番瀬保全団体は埋め立てや第二湾岸道路建設を阻止するため、さまざまな運動をくりひろげた。その結果、埋め立ては中止になった。第二湾岸道路の建設も28年間阻止している。

三番瀬保全運動の基本は「世論を動かし、世論を味方につける」である。そのため、あらゆる戦術を駆使している。署名集めや観察会、市民調査、街頭宣伝、デモ行進、集会、人間の鎖、行政交渉、コンサート、写真・絵画展、演劇などである。埋め立て計画の白紙撤回を求める署名は30万人分を集めた。行政交渉は2009年4月からこれまで91回におよぶ。

演劇は『船橋三番瀬物語 飯盛(めしも)り大仏』である。「三番瀬を守る会」の副会長をしていた津賀俊六さん(故人)が、同名の本を東銀座出版社から出版した。船橋三番瀬に伝わる江戸時代の義民伝を創作民話にした物語だ。三番瀬を守るため権力(お上)に抵抗し、獄死した漁師惣代二人の生きざまを描いた。

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津賀俊六さんが著した創作民話『船橋三番瀬物語 飯盛り大仏』(東銀座出版社)

この民話を八千代松陰高校の演劇部が劇にした。この演劇は千葉県高校演劇発表会の地区大会で優勝し、県大会に出場した。2008年11月である。彼らの演劇は見事だった。多くの観客に感動を与えた。劇が終わったあと、何人もの観客が会場から発言した。すべてが「とてもすてきだった」「涙がでた」「すごかった」「本当に感動した」という称賛だった。

ところが同演劇部は、3校に与えられる関東大会の出場権を得ることができなかった。なぜか。審査員の講評はこうだった。「リアル過ぎて生徒にどうか」。ようするに、豊饒の海を守るため、漁師たちが埋め立てに反対したり権力の横暴に抵抗したりするという話はリアル過ぎるということだ。そういう内容は高校演劇にふさわしくないということである。

◆大反響を呼んだ高校演劇

八千代松陰高校の演劇部員たちは、この審査結果に愕然(がくぜん)とした。関東大会への出場を確信していたからだ。泣きだした部員もいる。そこで三番瀬保全団体などが実行委員会を結成し、『船橋三番瀬物語 飯盛り大仏』を船橋市宮本公民館の三百人劇場で上演してもらった。2009年3月である。実行委員会の委員長は船橋漁師の滝口利貞さん(坂才丸)。事務局長は私がつとめた。ポスターを船橋市内のあちこちに張った。チラシも配った。新聞各紙も大きく報じてくれた。市民や船橋市漁業協同組合などから多額のカンパをいただいた。参加者は収容人員の300人をはるかに超え、大盛況だった。

公演は大好評である。観客はみんな、高校生たちの迫真の演技に魅了され、大感激だった。涙、涙、涙だった。三番瀬は埋め立てや第二湾岸道路建設の危機がつづいている。観客は、そうした現実と重ねあわせ、感動し、泣いた。終了後は感動と絶賛の大きな拍手がおくられた。

地元船橋の情報サイト『My Funa』はこう報じた。

「江戸時代に三番瀬の漁場を守ろうとして権力(お上)に抵抗し、捕らえられて獄死した二人の漁民を描いた『船橋三番瀬物語 飯盛り大仏』を八千代松陰高等学校演劇部が上演。牢死して三番瀬を守った漁師の叫び、そして今日の埋め立て問題へのメッセージなどが盛り込まれた迫力のある演技に場内は割れんばかりの拍手を送った」

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連日の拷問に屈せず三番瀬埋め立てを拒否する漁師惣代。迫真の演技だった
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三番瀬を守るため、惣代は何も食べずに牢死した。漁師たちは、惣代の意志を受け継いで三番瀬を守りぬくことを飯盛り大仏の前で誓いあった。このラストシーンに観客全員が涙した

◆これぞ文学の力、芸術の力

アンケートでは138人の方に感想を記入していただいた。そのほとんどが劇を絶賛するものだ。一部を紹介させていただく。

「こんなにも心にくる劇をみさせていただくとは思わなかったです。感動しました。みなさんがセリフを自分のものにしているという感じで、とてもリアルに感じました。ずーっと泣き通しでした。こんなに劇で泣いたのはひさしぶりです。ありがとう! 来てよかったです」(38歳、女性)

「昔も今と同じように三番瀬を守ってくれた人たちがいたことに感激! 高校生の芸とも思えないほどすばらしいものでした。晴れ晴れとした気持ちで帰途につきます」(未記入)

「高校生の部活とは思えないほどの熱演に、思わず胸がしめつけられました。こんな昔から三番瀬の問題があったことを知ってびっくりしました。守りつづけましょう」(65歳)

「三番瀬を守りつづけなければいけないと思いました。生徒さんたちの演技は上手で、びっくりです。感激しました」(77歳、女性)

「同年代の人があそこまで役になりきれることに感心しました」(17歳、男性)

「勇気をいただきました。鑑賞できてうれしかったです。すばらしい内容でした。よくぞここまで演じられたか──。感動でした。作者の心意気、そして命をかけて三番瀬を守った先人たち。ずっとつづけてこれからの人たちにも伝えてください」(70歳、女性)

「とにかく一言、感動いたしました。命をはって海を死守する漁民の姿、演劇部の皆様の迫力ある演技力、間のとり方、腹の底から出る若々しい声。とくに婆ちゃん役の生徒さんの立ち居振る舞いは圧巻でした。素人とは思えない出来でした。いつまでも心に残る宝となりました」(70歳、女性)

「この演劇で三番瀬のことを知りました。ずっと地元にいますが、こんな話があったとは知らなかったです。昔の人たちの苦労やギセイがあって今の私たちがいることを忘れずに生きていこうと思いました。ありがとう」(25歳、女性)

『船橋三番瀬物語 飯盛り大仏』の創作民話と演劇は、三番瀬保全運動を鼓舞した。保全の世論を高めるのに貢献した。これぞ文学の力である。芸術の力である。

地元の船橋市も、第二湾岸道路を三番瀬に通すことに反対するようになった。松戸徹市長は「三番瀬を最優先にする」との方針を船橋市議会で表明しつづけている。

飯盛り大仏は船橋市の不動院にある。大仏は、1746(延享3)年の津波によって溺死した漁師や、漁場争いで入牢し死亡した漁民を供養するために建立された。大仏の西側には漁師惣代二人の供養碑が建てられている。飯盛り大仏の追善供養は市の無形民俗文化財に指定されている。1825(文政8)年以来、約200年も供養がつづいている。毎年2月28日である。

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演劇ファンも大勢来場し、劇場は超満員となった
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花束贈呈後のあいさつ
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公演のポスター。船橋市内のあちこちに張った
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盛り大仏(後方)を参拝した法政大学の学生。法大生は三番瀬市民調査に参加している=2016年1月、船橋市本町3丁目
JAWAN通信 No.138 2022年2月28日発行から転載)