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諫早湾干拓事業は海を壊し、人間関係も壊した
漁業者も農業者も犠牲者だ

 ─NHKドキュメンタリー「諫早の海に生きて」─


図1-1

諫早湾干拓事業は海を壊し、人間関係も壊した。漁業者も農業者も犠牲者だ──。NHK総合テレビのドキュメンタリー番組「目撃!にっぽん」が「諫早の海に生きて~長崎・巨大干拓事業の68年~」を放送しました。2020年2月16日です。諫早湾干拓事業の実態や本質をえぐってくれました。以下はその一部です。

*工事直後から海の異変がはじまった

長崎や佐賀など九州4県に囲まれた有明海。その南西部に長崎県の諫早湾はある。1997(平成9)年、全長7キロの潮受け堤防で湾は閉め切られた。国営諫早湾干拓事業。総事業費2530億円。2008年に完成した。

潮受け堤防のすぐ外側に小長井港がある。松永秀則さん(66歳)は小長井町漁協の漁師だ。16歳のときから諫早湾で漁をつづけてきた。いまは定置網漁でコハダなどをとっている。だが、あがるのは売り物にならないエイばかり。水揚げは最盛期の10分の1ほどに減っているという。

「干拓してから急激に魚がとれなくなった。それは現場(漁場)ですぐわかる。いろいろ考えたり調査したりしなくても、干拓の影響はすぐにわかる」

松永さんは干拓事業がはじまるまでの諫早の海の姿が忘れられない。諫早湾は、日本最大級の広大な干潟が広がる海だった。干潟には、ムツゴロウをはじめ、カニや貝など多様な生きものが生息していた。魚介類が産卵し、いのちをはぐくむ有明海の子宮とよばれていた。

小長井町漁協の漁の中心はタイラギの潜水漁だった。タイラギは大型の二枚貝だ。寿司ネタなどとして人気が高い。ひと冬に1000万円もの水揚げがあった。松永さんは町で1、2位をあらそう漁獲量をあげていた。

しかし1989年に干拓工事がはじまると、海の異変がはじまる。1992年、タイラギが大量に死滅しているのが見つかった。翌年からまったく漁ができない状態がつづいている。

さらに、湾が閉め切られてからは赤潮が多発。小長井の養殖アサリもたびたび死滅した。だが、こうした海の異変と干拓事業との因果関係を国は認めていない。

諫早湾は、潮受け堤防によって海(有明海)と人工の池(調整池)に区切られた。

川から調整池に流れ込んだ水が溜まると、干潮のときに排水門から海に排出される。調整池からの水は、はっきりとその境をあらわしながら海に広がっていく。松永さんたち漁師は、この排水が海の異変の原因のひとつだと考えている。

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諫早湾の潮受け堤防。汚濁がひどい調整池(左)と諫早湾(右)は水の色がまったく違う。引き潮時に調整池の汚水(毒水)が諫早湾に排出され、この汚水が有明海に大きな被害を与えている。水門を常時開放して海水を入れたら調整池の水がきれいになり、海の異変が改善される。

*漁業補償協定調印で「天罰が下った」

干拓工事がはじまる前、諫早湾内には12の漁協があった。干拓事業の受け入れに最後まで反対したのが小長井町漁協だった。

1987年、同漁協も受け入れを決定する。国や県から、「漁獲量の減少は2割程度なので漁はつづけられる」と説得された。補償金は水揚げのおよそ1年分だった。

干拓事業を受け入れたことで、生涯にわたって重荷を背負わされた人がいる。森文義さん(故人)だ。当時、小長井町漁協の組合長だった。3年前、病気で亡くなった。

森さんは、組合長として漁業補償協定に調印した。自身もタイラギ漁をしていた森さんは、個人的には干拓に反対だった。が、組合長として署名・捺印をせざるをえなかった。

妻のあさ子さんは言う。

「自分が調印したので、自分のことを含めて天罰が下った、と言っていた。もう十字架だ。十字架を背負って一生を生きなければならない、と言っていた」

干拓工事がはじまるとタイラギやアサリがとれなくなった諫早の海。森文義さんが調印したことを、漁師の仲間から「海を売った」と責められることもあった。

2008年に取材したさい、森さんはこうのべた。

「印鑑を押した人間としては、それがずーっと離れない。あのとき手が震えながら押したときの感触だ。家がどうなろうがいろいろなことがあっても、あのときみたいにワナワナとするようなときはない。それがずーっと残っている。漁師はムツゴロウやカニや貝といっしょだ。水がだめになれば、だめになる。わしらもムツゴロウといっしょに死んだようなものだ」

*調整池の透明度は極端に低い

海の環境をとりもどすためにはどうすればいいか。それをめぐって混迷がつづいている。

調整池はいま、どのような状態になっているのか。12年前から調査をつづけている熊本保健科学大学の高橋徹教授は水質の悪化を指摘する。

「透明度は15cm(先しか見えない)」

調整池の中央部は透明度が極端に低いため、光が水のなかに届かない。光合成ができず、ここで生息できる植物プランクトンはほとんどいない。

高橋教授は言う。

「40cmぐらい下は深海といっしょだ。植物プランクトンは生きていけない」

「(採泥器でとった泥には)イトミミズもいない。なにもいない。これが普通の湖だったら、二枚貝とか水生昆虫の幼虫とか、ヤゴみたいなものもいるのだが、そんなものもいない」

開門して海水を入れたら調整池の水がきれいになり、海の異変が改善されると考えている。

*多くの農家は開門に反対

多くの農家は開門に反対の立場だ。

潮受け堤防の内側につくられたおよそ670haの農地には現在、35の農家と法人が営農している。最新式のハウスが立ち並び、大型機械を使った大規模農業が営まれている。

昨年10月、江藤拓農水大臣が就任後はじめて干拓地を訪問した。営農者の代表などとおこなった意見交換会では、開門反対の要望が相次いだ。

営農者は要望した。

「国におかれましては、引きつづき開門しない方針のもと、今後の裁判においても諫早湾干拓事業の意義をしっかり主張していただけますようよろしくお願い申しあげます」

干拓地の農業用水は調整池の水が使われている。パイプラインで各農地までひかれている。いまのまま開門すれば、海水が入り、農業に使えなくなる、と言う。

「水門を開けたら相当な被害がでる。開けたら海水になるので調整池の水が使えなくなる」

水門の開門をめぐって、漁業者と農業者それぞれから国を相手に裁判が起こされてきた。「開門」と「非開門」の相矛盾した判決がだされ、いまも審理がつづいている。

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潮受け堤防の開門命令を無効とした国勝訴の二審判決を破棄した最高裁判決を受け、「破棄差し戻し」「農漁共存の和解を」の垂れ幕を掲げる漁業者と弁護団=2019年9月13日、最高裁正門前

*当初の目的が失われても大型事業を推進

諫早湾の干拓構想が最初にもちあがったのは1952(昭和27)年だ。長崎大干拓構想である。戦後の食料難のときだった。湾全体を干拓し米をつくる食料増産が目的である。しかし、やがて米が余って減反政策がおこなわれるようになると目的が失われる。その後計画されたのが、規模を縮小し、防災と畑作を主な目的に変えた諫早湾干拓事業である。

干拓事業の着工時に長崎県知事だった高田勇さん(故人)を2010年に取材した。高田さんは、大きな経済効果がある公共事業をどうしても進めたかった、と語った。

「大型事業は県ではできない。だから、ぜひ公共(国)で整備してもらおうという気持ちは、うちみたいな端にある県は強い。国も、諫早湾の干拓事業は最後の大型干拓事業だからぜひやりたいという気持ちが強かった。理屈はいろいろつける。耕作放棄農地などが多くて、農業がどんどん衰えていく。優良農地を造らなければだめだ、と。台風災害も年中起こる。そんなこともつけたりして、理解を求めて事業を進めていく」

*3分の1が営農をやめた

~干拓地入植の農家・法人~

1997年に閉め切られた諫早湾。その工事現場に、かつて干拓に反対していた小長井町漁協の漁師たちがいた。不漁に苦しむなか、雇用対策として大手ゼネコンの下請けの仕事を国が用意したのだ。

渡辺さん(仮名)も漁師仲間と建設会社をつくり、社長として干拓工事を請け負った。渡辺さんは、かつては豊かな諫早湾に潜り、タイラギ漁をしていた。しかし、干拓工事によって漁をつづける人たちと生き方が分かれた。

「なんか言う人がいれば、あなたが僕らの生活を保障してくれるのか、と言いたい。だって、明日の収入がないギリギリの状態だ。海に出たって、海には何もない。漁業者がどうしろと言うのか。何とか生活を、と組合員が言うので、最終的には国に、干拓事務所に頭を下げるしかなかった」

2008年、41の農家と法人が期待をふくらませて干拓地に入植した。そのなかに干拓工事を請け負っていた渡辺さんの姿があった。干拓工事が終わったら仕事がなくなると悩んでいるときに声をかけられたという。

大型トラクターなど設備投資におよそ2億円。国や県が推奨していたジャガイモやタマネギなどを42haの畑でつくった。

しかし排水が悪く、ジャガイモが大量に腐るなどして、大幅な赤字に陥る。当初入植した農家や法人のうち、渡辺さんを含め、およそ3分の1がやめた。

渡辺さんはいまどうしているのか。結局、建設会社は倒産。営農にも失敗。借金の総額は4億円にのぼった。自宅は人手に渡り、息子が家賃を払って住んでいる。

「東京に行ったとき、『農地を利用して農業をしてみらんですか』という話があった。『金ないもん』と言ったら、『金はいくらでも出しますよ。出す方法はあります』と言われた。農政局の部長さんからそういうふうに言われたので、それを信じて手あげてしもうた」

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干拓農地

*漁業者も農業者も犠牲者

渡辺さんは、いまは小長井町の畑で農業をしている。ひとりで高菜などをつくり、少しずつ借金を返す日々だ。

「いまふりかえってみて、どういうふうに思いますか」の問いに、渡辺さんは答えた。

「自分をふり返ってみて、バカやねぇ、と思う。自分は信念をもって生きてきたつもりやったけど、やっぱり漁業者や農業者が生きていけるような体制をつくらんけん、こういうふうになっとたい。ただ単に干拓を進めるだけが目的で、漁業者も農業者も犠牲者・被害者じゃないか。漁業者と農業者がうまくいくような結果になれば、それがいちばんよかとやろうけど。その考え方を後世につないでいくことは大事じゃないかと思う」

*干拓事業は海を壊し、人間関係も壊した

小長井町の国道沿いに一昨年(おととし)、1軒の惣菜店がオープンした。

朝4時から仕込んだ30種類の惣菜が並ぶ。店を営むのは森あさ子さん。漁業補償に調印した元組合長、森文義さんの妻である。

「干拓工事をしたのも漁民だ。昔は目標もいっしょだった。同じ酒を飲んでいた仲間がばらばらになった。家族みたいなつながりもなくなってしまった。夫はそれをよく言っていた。海を壊したけど、人間関係も壊した、と」

森文義さんの戒名は「釋還海信士(しやくげんかいしんし)」だ。亡くなってようやく、森さんは願いつづけてきた海に帰った。

(まとめ・写真/中山敏則)

(JAWAN通信 No.131 2020年5月20日発行から転載)

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