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「東京湾干潟サミットin千葉」のご案内


図9-1

 「東京湾干潟サミットin千葉」と題したシンポジウムが2017年9月16日に千葉県弁護士会館でひらかれます。主催は千葉県弁護士会、共催は日本弁護士連合会などです。くわしくは 同封のチラシ をごらんください。
 「昔の日本人は自然を愛していた」という論調がみられます。論拠として、『万葉集』や『古今集』では自然を詠ったものが多いことなどがあげられています。しかし、この見方はまちがいです。たとえば、『万葉集』の歌人たちが詠っていた時期に奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)が造立されました。東大寺の建立と大仏の造立にともない、森林が大規模に伐採されました。また、大仏の鍍金に50トンもの水銀が用いられたため、甚大な水銀汚染が発生しました。水銀を含んだ水が川に流れこみ、平城京内の堀川や井戸を汚染したのです。若草山に木が生えなくなったのはそのせい、という説もあります。しかし、こうした森林破壊や水銀汚染に抵抗する者はいませんでした。
 日本で自然保護運動が起こったのは1900年代になってからです。南方熊楠は、森林伐採の国策で絶滅の危機に瀕していた熊野の森(紀伊半島)を守るため、身体を張ってたたかいました。それを民俗学者の柳田国男らが支援し、熊野の森は守られました。1918(大正7)年のことです。これが日本初の自然保護運動とされています。
 東京湾では1604年ごろ、徳川家康が干潟や砂州を大規模に埋め立てました。それに反対する者はだれもいません。明治期以降、東京と神奈川の東京湾岸は工業用地などとしてどんどん埋め立てられました。戦後の高度成長期には、千葉の東京湾岸も片っぱしから埋め立てです。千葉県は東京湾内湾の干潟・浅瀬をすべて埋め立てる計画を策定しました。
 こうしたなかで1967年、千葉県市川市で「新浜を守る会」が結成され、新浜(市川市行徳)の埋め立てに反対する運動が起こりました。これは日本初の干潟保護運動とされています。1970年代に入ると、「東京湾の干潟をこれ以上埋めるな」という運動が千葉で高まります。この埋め立て反対運動によって、谷津干潟と三番瀬、盤洲干潟が残ったのです。
 9月16日の「東京湾干潟サミットin千葉」では、東京湾に残った干潟の保全運動や現状・課題などを報告します。開会は午後1時30分です。
 基調講演は千葉県弁護士会の中丸素明弁護士。各干潟の報告は次の4本です。
 
 ①谷津干潟=千葉の干潟を守る会の田久保晴孝副代表
 ②三番瀬=三番瀬を守る連絡会の中山敏則代表世話人
 ③盤洲干潟=小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会の御簾納照雄事務局長
 ④葛西三枚洲=日本野鳥の会東京の飯田陳也幹事。
 
 千葉県自然保護課の竹重貴志主幹による「三番瀬自然環境総合解析結果」と法政大学人間環境学部高田ゼミ生による「東京湾をテーマにした自主学習の紹介」の報告もあります。そのあとは会場からの発言です。

(『JAWAN通信』編集部)
(JAWAN通信 No.120 2017年8月30日発行から転載)

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